井上ひさし VS 藤本義一  ビッグ対談
       −−戦争・地球・憲法−−


2008年3月21日(金) 18:30〜
 大阪市立中央公会堂

会場には1500名が参加し、憲法9条を守ろうという熱気があふれました。 井上ひさしさんと藤本義一さんの対談では、会場が笑いと感動に包まれました。

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井上ひさしさん
 
(小説家・劇作家)
 (「九条の会」呼びかけ人)

 憲法9条のように軍隊を持たず戦争をしないことが可能なのか。 私たちは自信を持って可能と言えるんです。 

藤本義一さん
(小説家・放送作家)
(「九条の会・おおさか」呼びかけ人)

 私も75歳になります。 戦前・戦中・戦後を知っている人は少なくなりました。  
 昨年7月に亡くなった小田実さんが言っていたことが、思い出されます。 小田実さんは、「ヨーロッパで認められている良心的兵役拒否というのを、国家がやればいい」と言っていました。 外国が戦争をするときも、日本は戦争に参加しないと言えばよいということです。
 そもそも第2次大戦のときは日本は54カ国と戦争をしたんですが、このとき国内には武器を作る工作機械が5千台あり、そのうち3千5百台は外国製だったのです。 冷静に考えたら、外国と戦争状態になったら武器を作ることもできなくなる。戦争なんて本当はできないはずだったのです。
 日本とは違って、第2次大戦中に「戦争をしない」と宣言した国はありました。スウェーデンなど北欧諸国と、スイスやスペインなどです。 こういう国は、一体何をしたのでしょうか。
 これらの国の基本的な考え方は、「私たちは戦争に加わりません。 しかし、戦争によって生じる不幸は引き受けます」というものでした。
 たとえばスウェーデンは造船の盛んな国でして、戦争中は「人質交換船」を運航しました。 例えば、日本にいる外国人と、外国にいる日本人を引換えに運ぶようなことをする。 鶴見俊輔さんなんかも、この船で戻ってきたんですね。
 スイスは、対立国をとりもって伝達や仲介をする役割を果たしました。 日本が終戦受け入れの意向を敵国に伝えるときも、スイス経由で伝えられました。
 スペインなどは、各国の捕虜収容所を視察して条約違反など問題点を監視しました。 このスペインの行動と日本人との関係について、お話します。 アメリカのカリフォルニア州には日系人12万人が在住していました。 第2次大戦が始まると。彼らは財産を没収されて砂漠地帯の収容所に入れられました。 ひどい話です。 それでも収容所内では日本人らしく団結して、大豆から豆腐を作ったりした(笑)。 ところが納豆はうまく作れない。 そこでスペイン視察団が来たときに、日系人たちは、「納豆を作りたい」と視察団に直訴しました(笑)。 すると視察団はスペイン本国と連絡を取って、どこからか納豆菌を入手してカリフォルニア州の収容所に届けたというのです(笑)。 
 こういうように、「戦争に参加するかしないか」というだけでなく、まさに戦争には加わらないが、国際的な信頼は維持していくという、「第3の道」があるんですね。 戦争に参加しないと世界に通じないなどというのは間違いです。騙されてはいけません。

            *     *     *
 思うのですが、戦争をしたい人が戦争に行けばいいんです。言い出した人がやるべき。 穏やかに平和に暮らして生きたいと願っている人を、戦争に巻き込まないでほしいです。
  小田実さんが言っていたように、良心的兵役拒否を市民も政府もやればいい。 憲法9条を大切に考えていきたいと思っています。
 
 実は、私が会社員や公務員にならずに今のような仕事をすることになったのは、戦争と関わりがあるんです。
 昭和20年の終戦時、親父は45歳でしたが、大阪大空襲で家を焼かれて心身をこわし、交野市私市の療養所に入所しました。母は41歳でしたが、アメリカ駐留軍(進駐軍)のジープの事故で入院しました。中学生の自分が取り残されて、いったいどうしたらいいか分からない。
父の病気のことでは診察代は半額負担せよと役所がウソを言う。母の交通事故については、日本の警察は米軍が起こした事件を調べられないという。もう役所も警察も信用できないと思いました。
 当時中学生だった私が、ヤミ市で働くことにしました。ヤミ市は大阪に40ヶ所あって、食糧の値段は朝6時に決まるんです。ヒロポンの値段が決まると他の売り物の値段も決まるので、大阪中を走り回って値段を知らせていくという仕事をしました。その日に稼いだお金を、父母が入院している病院代に入れました。
 僕が高校に入っても、まだ親父は入院中でした。 親父が病室のベッドで深々と頭を下げて言うんです。「大学へ行け。お前の頭は金庫だぞ。」と。 ただし条件を出されて、@授業料が安い、A教員が多くて学生が少ない所、B自転車で行ける所、と(笑)。 当時は堺市の諏訪ノ森に住んでたので、自転車で行けるのは大阪府立大学しかありませんでした(笑)。 それで大阪府立大学の経済学部に入ったんです。
 さあ就職はどうするかと考えたところ、堅いところがいいと思って公務員、なかでも社会科の教師になろうと思って教員資格を取りました。 堺市立の陵南中学に就職することが決まっていたんです。 
 後は卒論を書いて卒業だというとき、私は卒論のテーマを、「日本の雇用問題」という壮大なものにしました。それで調べてみると、いろんなことが分かったんです。

 まず、「定年退職」のことを調べました。当時は「停年」と呼んでました。明治43年に「就業規定年限」の定めがあることまで遡ることができました。 昭和20年代も明治時代も、ずっと定年は55歳のまま。 しかし、明治43年当時の平均寿命はというと42.6歳なのです。 つまり、もともと定年というのは平均寿命を10年以上過ぎた人のことだったのです。今の平均寿命でいえば、定年は96歳ということになります。 でも、今は何の疑問もなく60歳くらいで定年ということにされているんですよね。騙されているんです。
 このほか、「賞与」とか「手当」というのも、ヨーロッパでの言い方とは違い、主人が奉公人を使っておいて施しを与える言い方になっている。日本人は、明治時代に「強い国づくり」をして戦争へ進むときから、都合のよいように騙されてきたということが、よく分かったんです。
 それで、教員になって定年退職まで賞与や手当をもらう仕事はやめようと思って、作家の道に進んだのです(笑)。 戦争で親も自分も苦労したことが、今の私へつながっているんですね。


 井上ひさし VS 藤本義一
  
−−戦争・地球・憲法−−


藤本  バンドマンの友人がね、あるとき僕に被爆者手帳を見せたんです。 「自分の身体には283個のガラス片が入っている」と言って。 普段は原爆のことを語らない彼が、ずっと自分の心と身体で背負ってきたんだと思う。 あるとき姿をみないなと思ったら、亡くなっていた。 最後までドラムを叩いていた優しい男。彼のことを脚本に書きたいと思っています。
井上  被爆直後に広島県知事が「これからは洞窟生活だ」とか「花を植えよう」と言った。 これには非常識だとか無理だという抗議もあったといいます。 被爆した8月は、熱さで遺体が腐敗していく。 そういうなかで9月に枕崎台風が来た。被害をもたらした台風だが、これで遺体が洗い流されたともいいます。 本当に地獄絵図。それが戦争なんですね。
藤本  ところが恐ろしいことに、「国を守ろう」という意識が子どものときから植え付けられていて、怖さがない。 僕は終戦直前に12歳で「航空機搭乗乗員証」というのをもらった。 あのまま戦争が続いたら島根あたりの航空隊に入隊していたと思う。教師も周りも、「国のため」ばかり言って、子どもが戦争に行くことの怖さを口に出さなかった。
井上  私の終戦時は、山形の山奥で、米沢牛と米の産地にいました。いつも米と牛肉を食べてました(笑)。 魚は月2回だけ。 腐りかけの刺身でした(笑)。
藤本  私は大阪で、食べ物は全然なかったですよ。いつも空腹で。ただ一度だけ満腹になったのは小学校のとき夢の中だけ(笑)。 カレーを食べる夢を見たんです。 女房はモンゴル帰りなんですが、「私はステーキの夢やった」と言います(笑)。 とにかく食べたいという夢さえつぶしていくのが戦争ですね。

井上 いつも空腹でしたね。
藤本  終戦時の記憶としては、昨日まで偉そうだった教師が大人しくなったね。 逆に生徒の方から「お前のせいで負けたんじゃ」と怒鳴りつけたりした。「負けた」という意識が少年の中に横たわっている奇妙な感じ。戦争さえなければ、そんなことは無かった。 
ビッグ対談 (一部要約)


井上  私は紆余曲折あって仙台で戦災孤児を収容するラサールホームというところに入ったんです。当時は戦災孤児は東京だけで12万人もいたといいます。子どもが集団疎開から帰ってきたら親が空襲で死んでいて孤児になる。
藤本 大阪では戦災孤児は3〜4万と言われてます。
井上  その施設で、しも焼けになって手が膨らんだとき、別の子どもがカミソリで手を切ってくれる。すると黒い血が流れ出るんです。そういう知恵を子どもが持っていたんです。
藤本 あの時代、子どもがおかしい知恵を持っているんですよね。
井上  そうやって過酷ななかを生き抜いていく。 孤児収容施設といっても、定員60名のところに300名が入っているので、生きるのも大変です。
藤本  終戦前日の8月14日、動員令で他の生徒らと駆り出されてたんです。そこへ米軍グラマン機が低空飛行で襲ってきた。 爆撃が終わったら、K君が一人だけ起き上がらない。 いつも死に方が上手い(死んだフリが上手い)ヤツだったんですが、本当に背中に穴が開いていて血を流して死んでいた。

井上 小田実さんが、8月14日の空襲を怒ってましたね。日本では終戦前日とされていますが、実際にはポツダム宣言受諾を通告していて、アメリカでは戦勝パーティーをしていた。大阪を爆撃する必要はなかったはずです。
藤本  戦後の教師は二つに分かれました。 戦争は正しいと教えたことを反省せずコロッと態度を変えた人と、しっかりと過ちを伝えようという人と。
井上  私は小学5年で終戦です。学校の黒板に校長が「最後の一人になるまで戦うぞ」と書いてあったのを、「これからは民主主義だ」と書き換えてました。
藤本  今日、われわれが大勢の前で話す機会が与えられたということは、まだこれからも(憲法を守る取組みが)続行すると受け止めます。集まって、熱気が高まるのはいいですね(拍手)。




2回客席も満員になりました





熱心に聞き入る参加者の皆さん





井上ひさしさん(左)、藤本義一さん(右)

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